人はいつ、どうやって正しい食べ方を学ぶのか?その①

体にいい、悪いだけでは、人は食習慣を変えないのか?という疑問

臨床栄養学という分野を専門にしています。

どのような食事により、どのような病気になりやすい、あるいは、この病気になったらこのような食事をとるとりましょう、というような「食事←→健康・病気」の関係性を調べる学問です。

管理栄養士を養成する学校には、いくつかのバックグラウンドがあります。正式に調べたわけではありませんが、私の印象では家政学部系のなかの”食物分野”から派生した学校が多く、農学部の食品化学などに由来する学校もあります。そのようななかで、私は「医学部」にある栄養学科で学んだため、栄養管理を考える上では「食事が体にどう影響するか」に考えが偏りがちです。臨床栄養学という分野を専門とすることで、さらに偏りが強まっています。

しかし、最近「身体に影響するから〇〇のような食事をとりましょう」というだけでは、人の行動を変えていくのは難しいなと痛感します(特に継続してとなると)。既に(糖尿病や腎臓病などの)病気にかかった方へはそれが有効なことも多いです。しかし、まだ病気になっていない人に対して食事の大切さを伝える場合、「身体への影響」を説明するだけでは足りないように思います。

そこで、食文化や食の歴史についてより理解し、異なるアプローチを見いだせないかを探っています。

戦後の主婦の食事に対する思い

そのようなときに、阿古真理さんという作家さんの『「和食」って何?』という本に巡り合いました。

和食の本といえば、鎌倉時代に一汁三菜の型ができて、戦国時代に千利休が茶懐石を考案し、江戸時代には食事が多様化して、明治維新から肉食が始まりーという話に留まることが多いのですが、阿古さんの本では戦後の高度経済成長のなかで、主婦がどのように料理に向き合っていたのかという近現代の食事の変遷まで迫っているので、とても面白かったです。私としては、戦後の食事の変化をとらえるのが特に重要であると思っています。

阿古先生は私よりも年長でいらっしゃいますが、育った地域や母親の食事の考えなどがとても似ていて、自分のことのように読みました。

私の家では、先進的な生活協同組合である「コープこうべ」で食材をとっていましたが、母親や近所のお母さんたちは、安心・安全な食品を子どもに食べさせることを心掛け、添加物に対して注意を払っていました。着色料が使われた赤いウィンナーを食べたかったのですが、食べた記憶はほとんどありません。そのような主婦の安全な食品を手に入れる闘いを経て、いまでは真っ赤なウィンナー自体を見かけなくなりました。

阿古先生も書かれていますが、あの時代の主婦の多くは専業主婦であり、おいしく安全な食事を家族に食べさせるよう努力することが存在意義を示すものであり、誇りだったのだろうと思います。

家庭での食教育の機会が減っているのではないか

翻って、現在の主婦は、仕事や豊かな趣味をもっているため、食事の準備によって、存在意義や誇りを示す必要は低くなってきています。忙しいなかで、何とかこなさないといけない仕事=食事作り、という具合になっています。

私のような栄養マニアは、忙しい合間を縫って何とかツジツマを合わせた料理を用意しますが、それでも心が折れそうになることがあります。一般の方では、どれほど大変なことでしょうか。

子どもにとっても、お母さんがいつも溜め息をつきながら食事をつくっているのを見ると、食事をどうとらえるようになるのだろうと思います。

さらに、子どもに対して健康的な食事の話をしたり、保護者としての食事に関する思いを話す機会(家庭での食教育の機会)が減っているかもしれません。

家庭での食教育を補う家庭科の授業

今、大学で同じ研究室の先生が家庭科がご専門で、栄養教諭の育成をされていまが、恥ずかしながら家庭科教育についてよく知りませんでした。

阿古先生の上記の本で、家庭科での食教育の可能性を読んで、バランスの整った食事の準備を学ぶのは高校の家庭科が最後なのだということが目からうろこでした。食育というと小学校で野菜を育ててみましょうといった簡単なものを想像しがちですが、高校生にもなると簡単な献立を自分で考えて調理することができます。そのような指導カリキュラムがあるのだと知りました。

しかし、大学受験に必要な科目が優先されて、家庭科授業の時間数が減ってきているという現実もあるようです。

高校を卒業すると、もう食教育を受けられないのか

仮に、高校で十分な食教育を受けられたとしても、その後は、系統立てた正しい食知識を得る機会はなく、次に専門家から食事に関して教わるとすれば・・・それは

病院での管理栄養士による栄養指導なのです。

既に生活習慣病にかかっていて治療を受けにきた病院で、何十年ぶりに食事について学ぶのです。

それでよいのでしょうか。

空白の30年間の食教育を誰がどうやって担えばよいのか。これが食育を真の意味で食育にするうえで解決しなければいけない課題ではないでしょうか。

(その②に続く)